■.沖矢さんに囚われる

 目が覚めると、知らない部屋だった。ベッドから体を起こして、改めて部屋を見渡すけれど全く見覚えがない。それに頭がぼーっとしていて、ここに来る前の記憶が思い出せなかった。豪華な洋館の一室のようだけれど、一体此処はどこだろう。部屋自体はそこまで広くないけれど、彫刻のデザインが印象的な机や棚は全て上質そうで、ここが洋館風のラブホテルじゃないことだけは確か。

「ここ、どこ……?」

 ダメだ。此処へ来た経緯が、全く思い出せない。そんなことあるだろうか。何で、何も思い出せないのだろう。ここは誰の……?

「どうしよ……っ」

 もしかしたら悪いことに巻き込まれているのかもしれない、そう思うと指先が震えた。とにかく部屋を出なくては。視線の先、部屋の扉は閉ざされているけれど、このまま此処にいてはいけないような気がした。

「……っ!!」
「おや、目覚めましたか?」

 床に足を降ろした時、急に部屋の扉が開けられて私は声にならない声を上げた。本当に心臓が飛び出そうだった。どくどくと波打つ鼓動は静まりそうにないけれど、聞き覚えのある優しいテノールの声色に、私はゆっくりと顔を上げる。

「おきや、さ……っ?」

 沖矢昴さん。家が近所だという彼とは偶然会う事が多く、最近はちょっとした会社の愚痴も話せるくらいの仲になっていた。友達と、呼んでいいのかは分からないけれど、悪い人では全くない。むしろ紳士的で印象の良かったはずの彼が、何故か今日は様子が違う。よく分からない状況の中、彼が現れて安心できる筈なのに違和感を覚えて仕方がない。

「おやおや、そんなに震えて……」

 沖矢さんはいつもの柔らかい笑みを浮かべながら、部屋の扉を閉めた。ジリジリと歩み寄ってくる彼の姿に、体は自然と後退していく。誰がどう見たって、私が怖がっているのは一目瞭然なのに、沖矢さんは心配する素振りを見せることなくただ微笑むだけ。まるで全てを掌握しているような、そんな余裕を感じる。

「名前さん。ご気分はどうでしょうか?恐らく、めまいや頭痛といった症状が出ているかと」

 彼はテーブルに置いてあった瓶を開け、グラスに水を注ぎながら私の方をチラリと見た。眼鏡の奥で、彼の瞳がギラリと光ったようなそんな気がした。

「どうぞ飲んでください。ちなみにこれは硬水です。ミネラルが豊富に含まれていますので、今後はこちらを飲んでいきましょうね」

 そう言って差し出されたグラスを見たまま、私は首を左右に振る。今の沖矢さんは、私の知っている沖矢さんではない。閉ざされた部屋の中、逃げる術を見出せない私は震えるしかなかった。今、私に必要なのは水ではなくて説明だ。沖矢さんはそれも分かっていて敢えて避けているように見えるから、余計に恐ろしい。

「ああ、名前さん」
「っ……や、やだ……こない、っで、!」
「落ち着いてください、もう安全ですよ」

 沖矢さんは困ったように眉尻を下げると、持っていたグラスを置いて私の真横に腰掛けてきた。彼の重みでベッドのスプリングが深く沈み込む。腿に触れられて、喉の奥がひゅうと鳴った。もう、逃げられない。何をされてもおかしくはない状況に、身体は硬直するばかり。

「可哀想に、こんなに震えて」
「っ……やだ、おきや、さっ」
「大丈夫ですよ、名前さん。もう心配入りませんから」

 沖矢さんの、男らしい骨ばった指先が私の頬を撫でる。その手つきは、まるで愛おしいものに触れるかの如く優しい。でも私が一つでも何かを間違えてしまったら、その優しさが崩れ去ってしまうような、そんな危うさが秘められている。

「わたし、何もっ……覚えて、ないん、です」

 声を振り絞りながらそう聞くと、彼は眼鏡を片手で押し上げ、静かに微笑んだ。

「大丈夫ですよ、名前さん」

 それは正常なことだと言いたげに、彼は私の頭を撫でるとゆっくりとした動きで私を抱き寄せた。煙草の香りと温かい体温に包まれ、一瞬ホッとしてしまうけれど身動き一つ叶わなそうな硬い筋肉を服越しに感じて、その圧倒的な体格差に絶望する。ここで何かされても、私には何もできない。

「おきや、さん……っ」
「貴女は、ある事件に巻き込まれてしまったんです。狩りの現場に、偶然にも居合わせてしまったんですね」
「……狩、り?」
「ええ。それはそれは、恐ろしかったのでしょう。記憶が曖昧になるもの無理はありません」

 彼の言葉はあまりにも抽象的すぎて、理解できなかった。どうやら私は何かを目撃して、その恐怖のあまり記憶に蓋をしてしまっているらしい。

「ただ、随分と取り乱していたようでしたので、こちらで少々、“処置”をさせていただきました」
「……え、?」

 処置、という言葉に嫌な予感がしてならない。私は時が止まったかの様に身体が硬直したまま、沖矢さんを見つめる。信じがたいその説明に、納得のできる理由が欲しかった。でも彼は何も言わないままゆっくりと口角を上げ、私の左腕を服越しに撫でていく。

「……ぁ、っ」

 するとある箇所でピリッと痛みが走った。それは注射を打たれた時によく似ている痛み。

「少々、痛みますか?」
「……こ、れ、もしかして」
「大丈夫、問題ありませんよ。痛みはじきに引きます」

 ダメだ、話が全然通じない。沖矢さんに聞きたいことはたくさんあるのに、それを許されない雰囲気に圧倒される。結局私は何も聞けないまま、縋るようにシーツをギュッと握っていた。こうでもしていないと、おかしくなってしまいそうだ。

「ただ、それによって副作用が出始めているんです。ほら、一度、水を飲みましょうか」

 楽になりますよ、と沖矢さんは私の頭を撫で付けた。彼が放つ有無を言わさない空気感とは反対に、その触れ方は優しく甘い。一瞬、安堵してしまったのは、こんな状況でも相手が沖矢さんだからだと思う。まだどこかで、彼を信じたいと思っている。

「沖矢さん、私まだよく分からなくて、」
「……水を。ほら、飲んでください」
「違う、そうじゃなくて……」
「言うことが、聞けないのですか?」

 それは聞いたこともないような、低い声。どうしてと、聞きたいのに声にならない。代わりに涙が溢れそうになって思わず下を向いた。

「……困りましたね」

 すると沖矢さんは、普段の優しい声に戻ると
私をまた抱き寄せる。よしよしと、子供をあやすように頭を撫でつけられ少しだけ気持ちが落ち着いてくる。沖矢さんを怒らせたくなくて、私は何も言わず彼が話し出すのを待っていた。

「貴女は、最大の弱みなんですよ。名前さん」
「……よわ、み?」
「ええ。大事な貴女が、偶然にもあの場に居合わせてしまった」
「……っ」
「唯一の目撃者となった貴女は、今、厄介なことに恐ろしい狼たちに狙われている」

 大変なことですね、と、そう話す沖矢さんの口ぶりは、全く大変そうではない。むしろ愉しげにも聞こえた。

「見つかってしまっては、全てが水の泡なんです」
「……それは、どういう」
「貴女は僕の大切な、大切なプリンセス。渡すわけにはいきませんから」

 沖矢さんは、私をその手で愛するように何度も撫でながら、言い聞かせるようにそう言った。こめかみや額にキスが落とされ、髪を耳に掛けられる。恋人同士のような触れ方に、頭がぼーっとしてくる。何も言わない私に満足したのか、にっこりと微笑んだ彼を見てこれで良かったのだと思えてきた。

「それと名前さんの会社には、既に連絡済みですので、ご安心ください」
「……え?」
「当然のことですよ。全て終わるまで、貴女はここに居続けなければならない」
「え……まっ……まって、ください、居続けるって……?」
「悪いようにはしません、何不自由、することはありませんので」

 沖矢さんは、私の質問には全く答えてくれず、その瞳でじっと私を見つめては無言の圧力を掛けていた。相変わらず、身体を撫でつける手だけが、優しく、そして恐ろしい程に心地がいい。

「怖がらなくていいんですよ、名前さん」
「……っ」
「もう、何も、心配いりませんから」

 そうして額に落とされたキスが、始まりの合図だったのかもしれない。